フォーカスアメリカコーポレーション代表の蝉本です。なぜ、アメリカか?というタイトルでブログを書こうとしたのですが、そうするには、私のこれまで歩んで来た道を紹介するのが手っ取り早いと気づきました。少し長くなるかもしれませんが、フォカスアメリカコーポレーションを創業するまでを振り返ってみたいと思います。

私は大学卒業後に新卒で、当時の日本貿易振興会、略称ジェトロに入会しました。そう、会なので、入会と当時は言っていました(今は機構になったので入構と呼んでると思います)。1993年です。日本経済はバブルの絶頂から徐々に加速度的に下り坂を下っていくことが鮮明になりつつあるころ。まだ、就職戦線も氷河期とまでは言えませんが、前年200名の内定が出た家電メーカーの採用が0名になったとか言う噂が流れ、そういえば、日本航空の四大卒の客室乗務員の採用がありましたが、その後かなりの期間採用をしなかったように思えます。もちろん、下り坂というのは、全体的にはという意味です。新しいビジネスや産業も生まれていました。インターネットはまだ日の目を浴びておらず、携帯電話もなく、ポケベルというようなものがあったように思います(私は使ったことがありませんが)、パソコンがなくて、課に一台、高い高い端末があった、そんな時代でした。

蝉本は展示事業部一般見本市課という部署に配属されました。となりには専門見本市課という課がありました。この二つの課は主に海外で日本企業の売り込みを助けるべく、日本パビリオンなどを設置するのが仕事という部署でした。一般と専門ってなんだ?なんだ?と辞令をもらったときに思ったのを覚えています(事実その後、この二つの課が統合されて、海外見本市課という一つの課になりました)。

ジェトロは当時、バブル時代までに積み上げた、対世界の貿易黒字解消のため、「輸入促進」という今ではなんとも懐かしい事業を華々しくやっていました。通商交渉の結果、日本の譲歩として、輸入車を増やす努力をします、どうやって?輸入車を紹介する展示会を日本で開催して、その経費を日本政府が出しましょう。そんな今思うと時代を感じさせる事業をやっていたように思います。さて、話を一般見本市課に戻しますと、ジェトロ発足以来の海外における展示会、を貿易黒字の当時も細々と続けていた部署でした。あまり、(当時は)花形部署という感じではなく、なにかちょっと他の同期連中を羨ましく思ったりしたものです。一般見本市というのは、なんでもありということ、そして対象は発展途上国のみでした。もう一つの部署の専門見本市はたとえば、消費財、工具などといった、専門の見本市、特に欧州などで開催さされる有名見本市の参加を行っていました。こちらも貿易黒字がありすぎた当時はあまり大手を振ってできなかったようで、中小企業の国際化支援という枠組みでやっていたように思います(その点は今もあまり変わらないと思いますが)

さて、一般見本市課です。こちらは、さきほど発展途上国向けといいましたが、これは発展途上国には技術や資本財、物自体が足らない。日本の資本財や技術などをもたらすことにより、当該国の発展に寄与する、という名目で、つまりODAというような文脈で日本企業の海外ビジネス支援を行っていたことになります。海外における展示会というのは、ジェトロ発足以来のまさに、伝家の宝刀とも呼ぶべき伝統的な事業です。(戦後発足時は展示会、市場調査、貿易斡旋の3つの機能からスタートしたようです)その割にはなにか舌を噛みそうな説明をしないといけないんだなくらいに思いながら、配属されました。しかし、今思うと私はそのあともほぼずっと、この日本の物を海外に売り込むというお手伝いをさせて頂くことになります。当時はそう思えませんでしたが、本当に幸運に恵まれていたんだなと思えます。

K課長、N課長代理、Oさん、この課の幹部の3名は、イランのテヘラン、インドのニューデリーといったまさに、ジェトロらしい地域の駐在経験をお持ちの、なにかこういかにもジェトロマンらしい、猛者のような方々でした。職人と言ってもいいかもしれません。私は、そのような課に配属され、ベトナムでの日本産業見本市開催の担当に任命されました。K課長には、大変期待いただき、君が最初から最後まで担当者として頑張るのだ!といつもゲキを飛ばしてもらいました。