1996年のマレーシアは本当に景気が良かった。たしか98年には、コモンウェルスのスポーツ大会(旧英領だけのオリンピックのようなもの)を控え、新しい空港、KLタワー、ツインタワーを有するKLCCの大開発、モノレール、高速鉄道、LRT、幹線道路、新しいホテルと本当にどこもかしこも建築ラッシュだったように思う。輸入車に高い関税がかけられていたため、マハティール首相(当時)が進める国民車、プロトンも人気であった。サガは、そのちょっと前の三菱ランサーで、ウィラもそうだったか、新車の納車には数ヶ月という感じで、早く欲しい場合はちょっとディーラーのセールスマンに現金を握らせるというような話であった。私は第二国民車であるプロデュアのカンチルというかわいい車に乗っていた(ダイハツのミラである)が、行く先々で交通渋滞が激しかった。

ある日のことである、寮の中でもリーダー格のH君が現金を貸してくれと言う。珍しいなと思って聞くと、新規公開株に投資するというのだ。少しならとほんの少しだけ用だてしたのであるが、たしかに3日後にきちんと返してくれた。聞けば、ブミプトラ優先枠のようなものがあり、IPOなので、ほぼほぼ儲かるということのようであった。事実彼はそういった投資で多くの利ざやを稼ぎ、とうとう、学内にネットカフェをオープンさせた(笑)

しかし、私は、ああこれはどこかで見たなと思った。自分の京都での学生時代はまさにバブルの余裕があるころであったが、生協の散髪屋のおばさんが、NTT株を買った話をしていたのを思い出した。意外な人までが買い始めると、バブルは弾けるに決まっている。まあ、コモンウェルスゲームが98年に予定されていたので、景気はそこらへんで底を打つのでは?という話をいろんな面々にしていたと思う。ただ、もっと早く弾けることになった。

私がマレーシアを後にしたのは、1997年の7月、2年間の研修を終えた時。まさにそのころ、タイを震源地に、アジアは通貨危機に見舞われることになる。東アジアの奇跡と呼ばれたアジアから資本が逆流を始めたのだ。

私は帰国して、大阪勤務となった。日本のメディアも大きく報道していたが、ジェトロのような組織にいると、もっと生の情報が刻々と入ってきた。マレーシアは資本逃避と通貨下落に立ち向かうために、様々な斬新な手を打った。マハティール首相が、通貨の空売りをしかけるヘッジファンドを大きく批判したことが、自由市場への冒涜のような形でものすごく、逆に批判されたように思う。韓国がIMFの管理下に入ったのが印象的だった。

1998年、9月、私は再びマレーシアの地を踏んだ。今度は、駐在員として。アジア通貨危機の真っ只中のマレーシアの様相は全く異なっていた。交通渋滞が少なくなり、自動車は数ヶ月待ちどころか即日納車が可能であった。いくつかの建設プロジェクトが凍結され、いたるところで建築途中の建物が放置されていた。通貨リンギはほぼドルに対してほぼ半額になっていた。

マレーシアを含めたアジア諸国は、これまでの高度成長からアジア通貨危機によりおった痛手から回復し、再び成長に向かうのにかなりの期間を要したはずだ。この間、中国が着々と力をつけてくる。

マレーシアが回復に向けて財政と金融のアドバイスを求めたのがゴールドマンサックスであった。こんなところにもアメリカの企業が顔を出すのかと感心したのを覚えている。そもそも、マレーシアには特に製造業ではエレクトロニクス産業が集積をしていたが、その出荷先の多くはアメリカと日本であった。通貨危機で空売りを仕掛けたのもアメリカで、復興を担うのもアメリカで。そういうものなんだなと少しアジアのポジションというものを垣間見た気がした。