2002年8月、マレーシア駐在を終えて、日本に帰国した。ジェトロ東京本部、展示事業部、海外見本市課というところだった。今ではなくなってしまったようだが、新卒で配属された、一般見本市課とそのとなりの専門見本市課がくっついた課だ。電話番号もマレーシアに行く前と一緒だった。いわば古巣に戻ってきたわけである。ただ、この間、時代は大きく変化していた。インターネット、ウィンドウズ、携帯電話、情報通信技術の発展は仕事の仕方を変えていた。1年かけて、一つの展示会を担当したのは今は昔、年間に数本担当しないと間に合わないくらいの展示会の数をこなしていた。

ジェトロは、私の帰国後すぐぐらいだから2003年、輸出促進準備室を立ち上げ、大きく舵を切り始めていた。輸出促進の本格的な再開である。輸出促進は戦後の外貨獲得にも寄与したジェトロの伝統的な事業であった。政府として何ができるか、市場調査的な調査、取引の斡旋、そして海外の展示会への参加というのが昔から変わらぬ手段である。そして、私は、その海外での見本市開催に注力することになった。

当時課長が1人、課長代理の私が一人、そして20代の若い課員が4名、派遣社員が1名というような陣容であったように思う。課長のIさんは、昔の職人かたぎな展示会の仕事を見事にシステマティックに進化させ、標準化させていた。出展者に配るマニュアル一つとっても、文言の一言一句にこだわり、詳細に改められていた。私は、I課長の仕事の進め方がとても好きであり、本当に多くを学ばせてもらった。

ジェトロ全体としても、輸出促進に多くのリソースを割き始めた。マンパワーは増やせないので、事業費という意味でだが。小さな課だったが、世界中の展示会を担当して、日本企業の海外ビジネスの支援をした。フランス、ドイツ、イギリス、中国、香港、アメリカ、中南米、アフリカ、中東、まさに世界中の展示会にジャパンパビリオンを組織し、参加した。日の丸のパビリオンが戻ってきたと喜んでくれた国も多かったように思う。

業種も、繊維産業、伝統産品、農産品、工作機械であったり、消費財、ギフト、家具、工具、自動車部品、不織布、映画、映像コンテンツ、アニメ、キャラクターと多くの展示会を担当させていただいた。